20140201旧東海道地鯉鮒宿から宮宿 の巻
2014年2月1日(土)
自宅をリオネル君といっしょに、9時半に出発しまして、逢妻女川自転車道をのんびりと走ります。
田んぼの景色が続くのです、のどかです。
井戸を掘ってる風景です、田んぼ用なんでしょうね。いい天気です。
ウォーキング、ランの人もいっぱいですね。
前から、いわれのある川名なので少し調べてみました。
以下、(参考)日本河川源流保存協会サイトより
逢妻川伝説
むか~し昔、この辺りに大変仲の良い幼馴染のお金持ちの娘と、小作人の息子が住んでおったそうじゃ、男と女は立派に成長し、いつしかお互いを結婚相手と意識するようになったそうじゃ。
しかしそれを知った娘の父親は、たいそう怒ったそうじゃ、この辺りには、金山というひどい藪山があって、盗人などの隠れ家があったそうじゃ、金持ちの父親は盗人どもに、お金を払い男を何処かへ連れ去り帰って来れぬよう頼んだそうじゃ、男は盗人どもに遠くへ連れて行かれ穴へ埋められてしまった。それと同じ時期に娘は猿投という場所の庄屋の家に無理矢理嫁に行かされたそうじゃ。
男は、悲しさと悔しさで、死ぬ間際まで泣き続けた。
娘は、辛いめおと生活に耐え切れず、庄屋の家を逃げ出し故郷へ帰る途中に、離れ離れになった男を思い出し、泣き崩れ息絶えたそうじゃ。
その二人の涙が川となり、生まれ故郷へ流れ着き、本当の夫婦になったそうじゃ。
この世で叶わぬ夢であったが、お互いを慕う一途な気持ちが、お互いの身体から染み出た一滴の涙でもいいからまじわっていたいという強い思いが、男川となり女川となり、逢妻川となったそうじゃ。
しかしそれを知った娘の父親は、たいそう怒ったそうじゃ、この辺りには、金山というひどい藪山があって、盗人などの隠れ家があったそうじゃ、金持ちの父親は盗人どもに、お金を払い男を何処かへ連れ去り帰って来れぬよう頼んだそうじゃ、男は盗人どもに遠くへ連れて行かれ穴へ埋められてしまった。それと同じ時期に娘は猿投という場所の庄屋の家に無理矢理嫁に行かされたそうじゃ。
男は、悲しさと悔しさで、死ぬ間際まで泣き続けた。
娘は、辛いめおと生活に耐え切れず、庄屋の家を逃げ出し故郷へ帰る途中に、離れ離れになった男を思い出し、泣き崩れ息絶えたそうじゃ。
その二人の涙が川となり、生まれ故郷へ流れ着き、本当の夫婦になったそうじゃ。
この世で叶わぬ夢であったが、お互いを慕う一途な気持ちが、お互いの身体から染み出た一滴の涙でもいいからまじわっていたいという強い思いが、男川となり女川となり、逢妻川となったそうじゃ。
というのと、
逢妻川の名前の起源は、平安時代、在原業平が娘(かきつばた姫という)と恋をし、二人は別々に都落ちした。幸い、八橋の川のほとりで逢うことができたが恋は実らなかった。この時から、逢妻川と呼ぶようになったと言われる。・・・逢妻史跡研究会発行「逢妻の史跡」より抜粋
というのが、あるみたいですね。 なるほど、勉強になりました。
川の呼び名だけでなく、土地の呼び名も物語が残っている事が多いですね。
川沿いに自転車道を進みますと、河川の掃除をやられていたり、象さんがいたり、
鴨が驚くほどいたり、
白よ黒がいたり、
自転車乗りがいたりです。
知立に着きました。
東海道の39番目の宿場ですね。
東海道の宿場名としては、地鯉鮒(ちりふ)なんですよね。
これも、調べてみますと、
参考 達人に聞け
古代から「知立」「智立」と表記されていたそうです。
知立神社の御祭神とされる「伊知理生命」(いちりゅうのみこと)の「知理生」(ちりゅう)に由来するというもので、
この「知立」はなぜか鎌倉期以降になると「智鯉鮒」と書かれることになります。
江戸時代になると「池鯉鮒」が一般的になります。
神様に由来する「知立」がなぜ「池鯉鮒」つまり「池の鯉や鮒」に変わってしまったのでしょう。
それは昔の人々のユーモラスな遊び心によるものといえるでしょう。
今の知立神社に行ってみればわかることですが、土地の低い所に神様は鎮座されています。
いわばここに池があって昔は鯉や鮒の産地であったということです。
きっとこの地でとれる鯉や鮒は美味で、
旅人があの宿に入れば美味しい川魚が食べられるという思いで地鯉鮒を目指したに違いありません。
現代でも旅の楽しみは現地の美味しいものを食べることに尽きると言ってもいいからです。
・・・なるほど、今も昔も旅の楽しみは、現地の美味しい物を食べることに尽きるのですね!
外観は、タイムスリップしたような店構えのお菓子屋さんです。
中を覗いてみますと、お客さんが順番待ちされていました。人気店なんですね。
ショーウインドウーには、お菓子並んでいます。
今日は、なるべく旧街道を忠実にたどってみようとおもいます。
地鯉鮒宿を後にしまして、阿野一里塚です。
有松宿に着きました。
ここは、有松しぼりで有名ですね。 この地は、他の場所と比べ丘陵地となるので田んぼが出来なかったので、絞りを始めて産業として江戸時代から育ててきたのことです。
街道の景観保存もやられていますね。
道路端に座り込んだ人たちがいらっしゃいます・・・写生大会でしょうか?!
少しお邪魔しまして、写真を頂きます。
そろそろ、帰ることにいたします。
帰り道に熱田神宮がありますので、ご挨拶に行ってみようとおもいまして・・・。
まだまだ凄い人がいっぱいですね。
観光バスも沢山来てました。
せっかくなので、宮きしめんを食べようと寄ってみましたが、あまりの人に行列が出来ていて席も無い感じでしたので、また次回ですね。